怒りという感情について考えてみた。

怒りという感情は

誰でも感じたことのある感情だし、これに支配されている人は多いと思う。

では、どの怒りに対してどう対処するか?

放置状態でも、考え過ぎたり、または奥底に仕舞い込んだり、

罪悪感を持ったりするのも

度が過ぎると、結局本来の自分を生きれない。

 

どう感じるかの”感情”が本来の自分とだれもが思うかもしれない。

でもこういう考え方もできる。

本来、人間・魂は高次元の自分、ハイヤーセルフをもっている。

その完全なる自分がまとっているフィルターを通して物事をみるから

歪んだ捉え方をしてしまい、怒りやらいろんな感情がでてくる。

 

本来の自分を生きる為には、まわりにくっついている余計な感情はいらないんだよね。

なくても出来る自分をみな持っている。

 

その感情が現れた時に、本来の自分はどうみるのかを考えてみる。

そして、どんな色のフィルターを持っているのかを考えてみる。

 

これは、客観的に自分を見るということ。

どうして、こう思うのか、

自分の思考の癖やこだわりはどこにあるのだろう と。

 

そう考えると、感情は自分というよりは、周りに影響されたものになる。

周りのエネルギーに反応しているだけ。

それに振り回されるのって、自分なら嫌だと思う。

 

周りに影響されて、

自分じゃなくて、周りによって自分が動く。

これは支配されていることになる。

 

だから、感情は無理に感じきろうとする必要はない。と思う。

支配されている時間が長くなるだけ。

その支配されている時間は、短くできると思っている。

どうしてかというと、ほとんどの人は感情を増幅しているだけだから。

感じきろうとして、とどめているだけだから。

 

感じきるのってそんなに長くない。

自分の感覚では、通りすがりの人のように、

感情がやってきて、ちょっと自分にぶつかって

すれ違うように去っていく。そんな感じがする。

つまり、感情が自分の中に宿ってる時間はそんなに長くない。

 

人に影響されない、自分主体の人生を歩むには、

その感覚をしっかり意識してみよう。

 

周りに影響された人生っていやだよね。

自分自身を行きたいよね。

 

意識することは、増幅することじゃないよ。

いつまでもそこにとどまっていることじゃないよ。

 

うまく捨てれる人になろう。

客観的に見ればいいだけ。

最初はうまくできなくてもいいと思う。

 

でも、自分なら、

相手に怒りをぶちまけて、相手にも嫌な思いをさせるよりは、

すこし自分で抱えることを選ぶかな。

自己犠牲に徹してもいいじゃない。

与えて与えまくるのと同じ事じゃない?

 

出し過ぎる人は、結局支配されて、怒りが残っている。

出しすぎない人も、溜まっていくばかりで結局残っている。

それは、客観視すればよい。

 

怒りによって周りを支配しているという勘違いとか、

悲劇のヒロインなんていらないから。

あとは、感じて捨てる。その時間を短くしていけばよい。

 

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